拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

オープン・アートスクール雑感

先日、長年いっぺんは見てみたいとおもっていたローザンヌの州立アートスクールの一般公開があって見学してきた。

思った以上に立派・・・の一言。

まぁ、40年前にボクが通った芸術学院はその当時でも『寺子屋』名称でも通用するミニミニな規模の学校であったが、ここの学校は規模といい、施設の充実といい、授業内容クオリティなども良さげで、爺になった自分を忘れてて、入学したい…と一瞬考えた。

が、それはすぐ???とクエッションマークに。

それはたまたま、鈴木大拙さんの本『禅と日本文化』を30年ぶりに再読しているからというわけだけではなく、芸術って何がどう発展しようが最終的には『心』の問題に行き着くわけでそこが未熟であれば、出来上がる作品は幼稚なものにならざるを得ないと思う。

 

チョツト妄想したのは、同じ年齢の芸術青年を5年と限って、方や州立アートスクール、方や雲水として禅の修行のために禅寺へ・・・とそれぞれ行った場合、その後の芸術活動にどのような違いがで出来るだろうか…というようなこと。

昨夜、自分の書棚で立ち読みした中野孝次著『生きて今あるということ』の中で紹介されていた良寛の漢詩を見てもその答えは歴然のような気もする。

   生涯身を立つるに懶(ものう)く

   騰騰天真に任す

   曩中(のうちゅう)三升の米

   炉辺一束の薪

   誰か問わん迷悟の跡

   何ぞ知らん名利の塵

   夜雨草庵の裡(うち)

   双脚等閑に伸ばす     良寛

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