拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

Ge-datsu?!

不立文字(文字・言葉で表せない)を看板に掲げる『禅』の周辺には、というか禅以前の仏教時代も含めると釈迦の『悟り』にまつわる言葉の何と多いことか。

般若、菩提、真如、正覚、成仏、涅槃、彼岸、大悟、覚悟、ニルヴァーナ、解脱、無心、空の境地、修証、成道、エトセトラ・エトセトラ・・・

言葉で言い表せないぶんだけ、各個人の受け止め方によって表現する言葉が違ってくる故に実に様々な言葉が出てくるのだが、これが『禅宗』になるともっと大変なことになって、そこらの『柱』やら持っている『扇子』やら『杖』やら『お茶』やら日常生活に最も身近にある物や事でもって示すのであるから…。

その昔(中国の唐や宋の時代)は禅僧は一喝や一棒を駆使したそうだが、ボク的には痛快でグズグズしていなくてサッパリしていて好きであるが、今はここまで親切に指導をしてくれる人も、してもらいたい人もめったにいないようだ。

実は来週、茶屋で柄にもなく『禅について』の話をすることになっていて、ボクの頭の中ではこういった禅語が頭に渦巻いている状況なのだ。

実際に修行したのは30年ほど前、それから禅卵をずーっと抱いて温めていて、この茶屋での最初の話に合わせて殻を破る…というような塩梅だ。

いつの時代にも世の行く末を案じる人々がいるものだが、方やAIにむかって目覚ましい展開が繰り広げられる中、方や深刻な貧富の格差が広がる社会の現状で『人としてのあり方』を今一度真剣にそういった事に真っ向から対面し、答えを残してくれた偉大な先人の言葉や行動に目を向けるとき、それらの言葉が真新しい響きをもって鳴り響くのを聞くことができる。

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