拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

人生考・通過儀礼について

 いつ頃からだっただろうか? ボクの頭にこの言葉<通過儀礼>が浮かんだのは。

 一切、儀礼的なものが、嫌いなはずだし、特に<通過儀礼>だなんてボクの辞書にはありません的ことばなのに。

 <通過>というぐらいだから過去を省みることが出来る年齢になってはじめて感得できるものなのかも知れない。
これについて書かれている本の一冊もいつか読んでみようとは思っているけど、まだ実現せず、ボクの考えはかなり独り善がりの解釈であろうことは間違い無い・・・。

 自己の人生の出来事を点として、それを一つ一つあるひとつの(センスを持った)線で結んでみてはじめて見えてくる
方向性・・・といったものを自覚したとき、それらの出来事の一つは自分にとって通るべき儀礼であったなぁーと思えてくるのだ。

 特に、最近<Good-by New York>という1985年に撮った写真をまとめて、それを何度も繰り返し見たとき、ボクはこの言葉<通過儀礼>が頭から離れずにいた。ボクの写真としては、一見まとまりのない訳のわからない写真だと思っていたのが、通過儀礼の街・・・としてのNew Yorkという観点から見れば、ひとつひとつの写真が意味を持って見えてきたのだ。

一般的に言って、通過儀礼とは、子供から一人前の大人になるために通過すべき儀礼・・・だと思うが、仏教的に大人になるとは?  仏の施無畏による<恐れ>の克服・・・とボクは解釈している。

その線で、ボクの通過儀礼について少しずつ、書いてみたいと思う。