拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 薫習(くんじゅう)


       〜 花を弄(ろう)すれば 香り衣に満つ 〜
『水を掬すれば 月手に在り、花を弄すれば 香り衣に満つ 』 唐の詩人 干良史(うりょうし)の作より

写真は8年前『The Kanji World 』と題して、禅語をテーマにニコルの日常写真と文字とを組み合わせた作品の1枚である。
昔、円覚の居士林に熱心に通っていた頃、老師から幾つか頂いた短冊の一つがこの詩であった。

この詩の深い意味は禅僧に任せるとして、浅い所のボクなりの解釈を述べたいと思う。

詩自体は何の難しいこともなく、まさにこの写真のような状況を詠んだ詩であろう。
ニコルは花を見ると、必ずと云っていいほどそばに寄って花の香を嗅ぐ… 。日本ではあまり見かけなかった仕草
の気がする。まァ、都会だと花そのものがないし、あっても人の家の窓辺だと匂いを嗅ぐというのもおかしい・・・
そんな事情もあるのかもしれない。兎に角、花に近寄って行けば自然、その香りが衣に移るに違いない。

この詩は公案としては、あまりに種も仕掛けもないシンプルな気がして、短冊も放っておいたが、
その頃読んだ鈴木大拙の本に『薫習』という言葉が都度出てきて、いつしかボクの『お気に入り』になった。

薫習とは〜(辞書によると)物に香りが移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより
      他のものに影響、作用を植え付けること…とある。
確かに、禅修行をしていると、いやでも『線香』の匂いが必ず体に沁み込んでくる。
寺にいる時はもちろん、家にいるときでも坐禅をする時は線香を立てて、それが燃えきる時間(約40分が
一柱(本来は火ヘン)坐るということになる。)

鈴木大拙が使う『薫習』の意味は、仏法であり、より具体的には禅問答の『公案』へのアプローチについての
アドバイスであったと思う。
実際、坐禅に使う道具は座蒲と線香であり、暗いなか坐っている最中、見える
ものは線香の真っ赤に燃えている頭の部分だけであるが、公案もなしで坐っていた頃、数息観といって吐く息に
集中して10数え、また1から数えなおすというのを線香が燃えきるまで続ける坐禅の方法であったが、
ボクは暗闇にポツンと赤く燃えている線香が公案であり、答えであることをずーっと感じていた… 。

禅の本を読んでいると、修行に苦しんでいる僧がある日、忽然と大悟…なんて云うようなことを随処で読むわけで
あるが、そのある日がくるまでは薫習に薫習を重ねる期間、つまり熟成する期間が必要である事を説いているのだと思う。

薫習…という言葉、禅を修行するうえで、これ以上ピッタリくる言葉はないだろう。
古いようで、常に最新の言葉なのだ。