拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

洗練の方向性

 ガイドをしていた時、日本から来た高専学校の教師をローザンヌ工科大学見学に案内をしたことがあった。

 担当の教授はロボット研究のイタリア人で彼の生徒の研究室をいろいろ見せてくれた。その中に日本人男性がいて、ロボットの視覚機能を専門に研究していた。この話は15年ぐらい前であったと思うが、ボクは好奇心を隠しきれず、ガイドの立場も忘れていろいろ教授に質問したりしていたら、だんだん教授はボクに対して疑惑を持った目つきになり、態度が始めよりよそよそしくなってきた。彼はボクが産業スパイ的な人間ではないか?と思っていたのだと思う。

 それは兎も角、このロボット問題を考えるとき、ボクはここに西洋文化の先端を見る思いがするのだ。

 というのはロボットというのは究極の人間を目指している様に思えば、万能の機能を備えた身体、目的を果たす為の優れた頭脳を持ったロボットの行動には全く無駄がなく、<合理>という言葉に集約され、そしてそれが西洋人と西洋文化の目指すところのように思えるから。

 ギリシャのオリンピックの裸像にはじまり、ルネッサンの絵画、ヒットラーのアーリア人種の優越の意味するところ、
ファッションモデルの変遷、ヘルムート・ニュートンの写真の方向・・・などなど究極の美の追求と人としての温かみの欠如は逆にクールともてはやされる。ボクの偏見もあると思うが、そんな方向性を西洋文化はもっているような気がする。

 その対極にあるのが、アジア人の持つ垢抜けない土着性・・・それが洗練されたのが、<風流ならざるところが風流なり・・・>みたいな東洋的帰結。

 いま西瑞は23:07、あと少しで、冬のバンクーバーオリンピックが始まる。