拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

人生における偶然と意図

 S.KINGの小説<不眠症>で人の生死を左右する訳のわからない生き物が2名登場して,彼らのセリフに<程度の差こそあれ、生は偶然のできごとと意図されたできごこの両方から成り立っている。>・・・と言わせている。

 この辺が、小説のポイントかなぁと思ったし,確かに気になる,面白い問題だと思う。

 人間て何かにこだわっていると,結構それに関する出来事がよく見えてくることってありえる。その場合それは,まったく偶然ではなく,自分の意識がたぐり寄せた成果であるから、意図的な偶然と言えるだろうか。

 特に写真をやっていると、それを感じる。自分の気に入った被写体を見つけたとき,ボクは必ずいい写真を撮る自信がある。ボクはだいたい気合(その言葉を意識していないが)でシャッターを押していることが多いが、その時はいい写真が撮れているという自信がどこからくるのか?来ているのだ。ただ問題はいかに、気に入った被写体出会うことができるか・・・にかかっている。

 自分でもこれはまぐれだ、・・・と思う写真が沢山あるが、そうだとするといい写真のほとんど全部はまぐれで,偶然だと言ってもいい。ただ結果が意図していたものと同様か,或いはそれ以上だとやはりうれしい。

 ボクの場合,手法的にスナップショットがほとんどだから、ある程度の意図と偶然の絡みあいから成り立つていることが多いから,こんなことを云うのだと思う。しかし、これって、小説のセリフそのままとも言える。

 <写真は偶然のできごとと意図された出来事の両方からなりたっている。>・・・と言ってもいいわけだ。

 話は突然変わって、別な卑近な例で言えば、<不眠症>と<未来の衝撃>と昨日新聞に出ていた<麦畑の不思議な幾何学的図形>これって、一見それぞれが単一の出来事のようでもボクの内部では意図的に結びつく現象であるが、しかし所詮それも妄想なのかもしれない。・・・とここまで書いてきたが、ボクの思考力もこの辺あたりまでで限界だ。

 ニコルが聞いた実話だが、アルコール依存性の50代のマダムが努力に努力して依存性からようやく解き放たれたとき,脳腫瘍が悪化して亡くなったという。・・・こういう話を聞くと、意図も偶然もあったもんではないと思うが、我が仏教では偶然は無い。全ては因縁が重なって結果がでることになっている。その因と縁に関して全知でいることが出来ないのが人の限界。