拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

禅修行 <憤怒力>

 日本では最近?何でも<力>を語尾につけて激励語とするのが流行っている気配だが、ボクも今日はそれにならう。

 ボクのは<憤怒力>の提言。

 今の時代これはぜんぜん受け入れられない・・・というか、どんなものかも知らない人が多いと思う。スポーッ関係の人には多少その方面に思い当たる人がいる程度じゃないだろか。

 その点,禅修行はその<憤怒力>を200%ふる活用している。寺の門の<仁王>様はだてに立っているわけではない。

 禅門を入った途端、怒声がまさに遠慮無く飛び交う。坐禅中はそのうえ警策という,バットに似ているが幸いにも6−7ミリの平たく,硬い板状の棒で肩を遠慮無く叩かれる。素人修行者に対しては多少・・加減があるが、ボクが通った僧堂というプロの雲水道場では加減が無いのではと思うくらい,おもいっきり引っ叩く。(折れた警策をボクは貰って宝物にしている。)
 スイスでガイドをしていた時,ある大学の先生が、(ああ,あの観光で有名な寺の修行なんて,たいしたことないでしょうね、金儲けが第一ですから・・・)と言っていたが、ボクは何も言わなかったが、血こそでないが,汗と涙の修行をしている雲水達が、一見穏やかな禅庭の片隅で懸命に修行をしていることを知っている。

 いわゆる<悟り>に向けて、一気に,理屈なしに<直入>じきにゅう,するようにという親切心これを<老婆心>というが、一旦それが理解ができたら,怒鳴られても,叩かれても・・・愛のムチというか仏の慈悲のムチであると,有り難く受け入れることができる、慣れると、馬の耳に念仏ぐらいにおもえてくる。

 ボクはこの禅修行で学んだことに一つに、この<憤怒力>がある。ボクが最初に修行した居士林の正面床の間にあったのはやはり牙を剥いた憤怒相の<仁王像>であった。 タイミング良い,慈悲心からほとばしる出る<叱り>は人をして真っ直ぐ心に響く・・・ものであるということを身にしみて学んだ。

 親が子供をおもいっきり叱れないというのは,悲しいものだ。子供はわかっていて悪さをするが,親に叱ってもらいたいからなのだが・・・。でもこの<憤怒力>もやはり学ばなければなかなか出来るものではない。

 今の世の中に欠けているのはこの慈悲心による<憤怒力>の激励だと思う。<やさしさ>とか<親切>とか上っ面の尊重が行き過ぎて怒るべき時にそれが出来ない為に事態がどんどん悪化すことが多いと思う。

 日本には,禅修行という形でそれがまだ残っている、珍しい文化、稀少価値を持った文化だと思う。