拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

音無しい人

 今朝,電車の中でわが女神,主治医のドクター・ヂュパスケに偶然会う。声をかけてくれただけでなく、わざわざボクのところに来てくれて握手をしてくれ、ボクの皮膚病が治ったというと,拍手をして喜んでくれた。ボクは周りの人を意識しちゃい、照れて、ちゃんとまともに挨拶も出来ない,子供になってしまった。

 美しいだけではなく、こんなに温かくて自然な人を見たことがない。今でこそ67−70歳?だけど彼女が若い頃はドンナだっただろうか・・・と妄想してしまったこの朝。久しぶりにに雨ザアザアの一日であった。

 帰りの電車で<未来の衝撃>を読んでいると以下の記述があった。

 <文化の衝撃>とは・・・外国の文化に十分な準備がなくて飛び込んだ旅行者が経験する深刻な困惑のこと。
 
 これを読んだとき、まさにボクのことを言われている気分になった。外国には20歳ぐらいから真剣に憧れていたと思う、それもボクにとって外国=アメリカであってヨーロッパのことはぜんぜん頭になかった、その点ヨーロッパに対応する準備はゼロの五乗、それよりか,ボクは<文化のカウンター衝撃>を喰らうのが嫌だったのでボクにとって日本の原点<禅>の修行にいそしみ、それで事足りたと思い込んでいた天然馬鹿野郎であった。しかもヨーロッパといいましても、いささか広うござんす、・・・でなんの因縁か西瑞(スイス)にまよいこんできたが、スイスという国はスイス人すら実体がよくわかりにくい(公用語が仏、伊、独、ロマンシュ語の4つある)国なのだ。

 <たとえ電話をかけるという簡単なことでも,外国ではうまくいかなくなってしまう。その見知らぬ外国の社会自体は非常にゆっくりとしか変化していないかも知れないが,彼にとっては、それがみな新しいものとなる。このような場所にいると普通の場合よりも疲れやすい。(主観的喪失感,孤立感,孤独感)というものをしばしば経験する>

・・・と記述が続く。

ボクの場合,妻をはじめ,周りの人達などにささえられて、ひどい孤立感はないけれと多かれ少なかれ外国に住む人々は上記の<文化の衝撃>にさらされていることは間違いない。ボクの場合,自業自得だけれど、言葉の面でかなり不自由を感じている。こっちの人間はボクのことを,音無しい人間と思っているだろうけど,ただべらべらフランス語が喋れないので音無しくしているだけなのである。