拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

ケ・セラ・セラ!

ニコルが彼女のブロクにぼくの三歳の時の写真を載せた。左手にリンゴを持ち、おかっぱ頭をしたボクはそのドングリ目をカメラの上方、遥か遠くを見ているようだ。

 この写真を見ていて,ボクは馬鹿なことを考えた。というのは生まれてから4,5歳まではボクの場合ほとんど記憶がない。ボクの育ての母・菊池の母さんが生前ボクに言った、<アンタが家に来るまで6軒の家をたらい回しにされたんだよ>
と。
・・・それはボクが未熟児で生まれ、ボクの実母が産後の肥立ちが悪く病気になり,やもえなく人の家に預けたのだが、夜泣きがひどく、どこの家でもギブアップし、巡りめぐって菊池の母さんに落ち着いたというのだ。

 そんな赤ん坊の頃の記憶は誰だってないのが当たり前であるが、この3歳の頃の写真についてもまったく記憶がない。

 兎に角、人は小さい頃の記憶が普通ない・・・というのがボクにとって不可解なことで、では現時点で出会う友達の小さな子供たちはボクのことを憶えていないのか,と思うと、寂しいような,不条理なことで何だか納得がいかない。

 そこで変なことを考えたのだが,では一層のこと生まれた赤ん坊は4,5歳まで眠らせたらどうだろうか?・・・なんて考えてしまったのだ。4,5歳までなんにも憶えてないのなら,旅行に連れていっても意味がないし・・・。

 馬鹿な頭ではそう考えても無理はない・・・などとボクは納得したが、この記憶のない時期に、他人に与える希望の光の度合いは計り知れないものがあるような気がするのだが、どうだろう。

 記憶のない時期というのは、あらゆる煩悩の根付かない、まさに無垢の時期で、それ故に無償の喜び、生命の光を発するのだろうか。

情報過多で病になるのを警告する<未来の衝撃>ではないが、人はそれを人間の防衛本能,<忘却>という機能で守っているようだ。

それにしてもボクは最近、守り過ぎるのか?<忘却力>の威力が強すぎ、友達に住所を聞かれ,家のそばの広場の名前がどうしても思い出せなくて、恐怖した・・・。