拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

写真考・俳句からの触発

 キッコさんのきっこの日記を読むと,俳句について書かれていた。いつもながら、どんな主題でもじつによく勉強というか研究されているので頭が下がる。彼女のことを感心していると何ページ書いてもきりが無さそうなのでよすが、彼女の俳句に関する文章をよんでいて、ふと思ったことは写真とボクのこと。

 ボクの写真にたいするあり方は時に<俳句的>であり,時に<映画的>であるのではないかと,自分では思っている。

 そこで写真的とは言えないのが、写真の面白いところ。写真はそれ自体は<空気>みたいなものだからだろうか?

視覚による映像に限定枠をはめただけの芸術、しかもカメラという機械を媒体にして,それこそ誰でも,設定さえすれば猫でも,象でも,イルカでも写すことができるいと簡単な技。
 
 問題は何をどのタイミングで、どの角度で、どの距離で・・・ということよりなによりボクの場合は何にボクは心を動かされるか・・・ということに敏感でいること。・・・のみであとはその場勝負。

 そのせいか、長年やってきた写真なのに、それに関してのウンチクというのがゼンゼン蓄されていないのが、彼女の俳句に関する文を読んだとき感じたのだ。

 それは写真家にとって当然なのかどうか? ボクにとっていい写真とは、琴線に触れるかどうか?あるのみ。でその後のことは詮索しない。・・・ので伸びないのかも知れない。或いは琴線を震わす音を聴く心を研ぎ澄ますためには,その一瞥の一瞬にかかっていて、あとのことはどうでもよい・・・と思っているのか。

 だから、案外ボクが写真なりを見るとき,それは真剣勝負的で一瞬に勝負がつく。ただ、自分の写真の時はこの切れ味が鈍ることは確かだ。その写真の背後にあるよしなし事に惑わされるから。