拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

フリーター道(その1)偉大な吉田司

 昨日の様々な体験云々から連想して新たなシリーズを立ち上げることにした。

兎に角,小学6年生からバイトを始め、様々な職業を体験してきたが、いつかその思い出を形にしてみたいと思っていてその機会が 無かったけれど,このブロクをその場にして少しずつ書き留めたいと思う。

 (その為には,ボク自身の年齢を暴露しなければその社会的背景がわからず,読んでも面白くないであろう、ボクは1952年5月生まれの当年58歳である。年齢を公表するのは少し抵抗があった、歳の割に馬鹿なことを書いているので、気が引けるがそれは仕方がないと、諦めることにした。)

 タイトルを<フリーター道>にしたが、ボクがバイトを盛んにしていた頃はこの名称はそんざいしていなかったが、
ここにWikipediaの定義を紹介してボクの趣旨と一致するのでこれを使うことにした。

定義ー1980年代後半のバブル経済の時期に、ミュージシャンや俳優になるという夢を持っているため正社員として就職せず、日々の生活費はアルバイトで稼ぐ若者に対し、プータローと蔑視するのではなく、人生を真剣に考える若者として応援したいという意味からフリーターという言葉が生まれた。正社員で終身雇用だった時代背景は堅苦しいイメージがあったため、自由にアルバイトで職を転々としてフリーに(自由に)という意味もこめられていることからフリーターとも言われている。 <この語源はフロム・エーだそうだ。>

 さて、ボクが初めてバイトをしたのは小学6年ときで、それは同級生,当時から偉大であった吉田司の影響であった。

我が故郷北見市は当時国鉄職員が多く,特にボクが実母と住んでいた地区は鉄道官舎が立ち並んでいて,クラスの半分以上が鉄道屋の子供達であった。ボクのように母子・生活保護家庭ではない鉄道屋の息子の彼が新聞配達している、(小さいながら自主独立の傾向を当時から持っていた)・・・というのを聞いて、なぜかボクは電撃的ショックを受けた思い出がかすかにある。その彼の紹介か?どうか忘れたが兎に角,新聞配達というものを始めた。

 柔道の帯みたいなヒモを肩からかけて新聞は何部くらいだったろうか?覚えていなが,多分20−30ぶぐらいを持って,ボクは誇らしげに,と言いたいが、配達する家のルートを覚えられなくて、かなり不安気に(というのは、今だに、新聞を配達するが,どの家に配達するのかわからなくなる・・・という悪夢を4年に1回ぐらい見ることがある。)配達し、フリーター・デビューをかざることとなった。