拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

フリーター道(その3)石の上にも三年のつもりが

 高校在学はバイトをしなかった。(正直いうとハッキリ覚えていない。牛乳配達を何年かしていたかも?)

 姉が結婚し、ボクと母の二人は郊外の高校のそばの公団に引越し、間もなく母が他界した。その後福祉の方の紹介で、ボクは当時市会議員であったOさんの家の二階に下宿させていただいた。奥様はとても親切な方で二人のまだ小さい息子達にお兄さんとボクのことを呼ばせて、何かと世話をやいてくれた。当時このご夫婦は35−42歳ぐらいではなかっただろうか?卒業して田舎を出てから、一度もお礼をしていない。 こんど故郷に帰る機会があればお会いしたい。

 進学校の高校に入って、進学するつもりのなかったボクは罠にはまったキツネのように狭い折の中を行ったり来たり状で
早く卒業することだけが夢みたいな、後悔多い3年間をすごした。

 卒業後何をするか具体的にわからないし、自衛隊にでも入って、いろいろ取れるだけの免状をとろう・・・などと考えて就職斡旋の先生に相談するとなんだかわからないが、絶対反対・・・みたいな感じで説得され、同クラスの学生運動をしている渡辺が強く反対する、(人が決めた道にガタガタ周りから云うな!)と内心思っていたとおもうが、説得されてしまったのか? 
なんと、オープンする前の秒読み段階だった京王プラザホテルに就職することにした。決めた一番の理由は、英語を話せるようになるのでは?・・・と希望をもったから。北海道の田舎から都会にでて会社の寮生活がはじまり、出社するときの満員電車に乗ったとき、泣いてしまった。何故泣いたのか?自分でもハッキリわからないが、情けない気がしたのだと思う。
(この満員電車の通勤が非人間的・・と思ったのか?)
 
 この仕事を一生懸命やるぞッ!・・・と意気込んでいたことが、その当時文通していた山本良子さんの手紙を読むことで確認した。しかし、純粋で、血気盛んな若者に水をさすような馬鹿な先輩、上司がいて理想の夢も打ち破られて、わずか2,3ヶ月でボクはやめてしまった。

 ホテルでは当時日本一を誇る47階の展望台を担当し、宿泊客以外は有料であることをエレベーターに乗り込む人達にご案内する係みたいなことをしていた。

 ここをやめてボクは神戸に行くことにしたが、出発の日、生方君が駅まで一緒に来て<ガンバレよ>と声を掛けてくれたのが印象に残った。