拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

言葉考・摩訶不思議

 今、ボクの小さな頭を占めているのは、(言語能力)というような事。
 ボクの頭脳が数年前から世のインターネットに繋がったことで多少は活性化しつつ在るようで、また混乱に陥ってもいる。

 この事にこだわるようになったのは、例の<Kanji-world>から端を発していると思う。
 先日久々に読んだ、松岡剛のホームページ<セイゴウちゃんねる>http://www.eel.co.jp/seigowchannel/archives/2010/01/2010_1.html#moreには、常にハイテンションに刺激されるし、たまたま読んだ、本や古い雑誌の記事などにも刺激を受けた。

 全く自慢じゃないが、<言語能力>みたいなことを今まで、考えたことも無かったということが不思議なくらい、それを刺激するクラゲがむしろ避けるのが難しいくらい自分の周りにぷわぷわ浮いているというのに。

 それは、自分は写真をやっている人間だ・・・。と文字や論理に依頼することをどこか拒否する自分があった・・・事は
うすうすと確かだった。昔、作家の中上健次さんに(あなたは本を書けるよ・・・)と言ってくれた時(書けないから撮るんだよ・・・)と作家さんに対してへりくだっての内心の返答ではあったが、じつはそれよりもっと写真家としての自負、(誰も書けない処を撮るんだよ・・・)ということであったと思う。

 だから、写真の後に<不立文字>の禅がボクの目の前に現れたのだろう。
 鈴木大拙は、(禅は言葉の発する以前を問題にする・・・)と言っている。

 (主客未分以前というは、神がまだ<光りあれ>と言わなかったときのことである。あるいは、そう言わんとせる刹那である。・・・略・・・。<光りあれ>という心が、神の胸に、うごきださんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、<光>が現われてからの事象に没頭するのである。)・・・東洋的な見方ーより。

 ぼくが、写真に興味を抱いたのも、原因はこれだったのだろうか?・・・摩訶不思議、摩訶不思議。

 そして摩訶不思議なことは、言語能力への意識ゼロの人間である自分が、坐禅中に言葉の認識と獲得があったことだ。
 それは、老師から公案をもらう以前の時期、自宅で坐禅をしている時、心身のどこからなのかわからないが、勝手に言葉が湧き上がって来たことがなんどもあった。自分とは一切関わり合いのない<愛>などという言葉がある時来て深く味わったことがあった。