拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

コペル君からアオト君へ

 吉野源三郎著<君たちはどう生きるか>に出会う。 まったく本との出会いは<人>との出会いだと思う。

 この本は毎年11月下旬に行なわれるジュネーブの日本補習学校の本のバザーで今回買いあさった20冊の中にまぎれていた。

 小説の主人公は中学生のコペル君。父親代わりの叔父の導きで、精神的に成長していく過程を描いた小説。
  
 この本が出版された1937年は盧溝橋事件がおこり、以後8年にわたる日中戦争が始まった年・・・だそうだ。

 しかし、読んでいて古いという感じが全く無いのが不思議なくらい。タイトルが示しているように、主題は人としての心の

 あり方であるからだろう。ただ著者はそれを:社会科学的認識とは何かという問題と切り離してはならぬ・・・というメッ

 セージを込めて書いているそうであるが、ボクはこの本の随所に仏教の教えそのものを感じた。

 最初に描かれている<へんな経験>は銀座のあるデパートの屋上からの景色をながめている場面の出来事であるが、

 <コペル君はどこか自分の知らないところで、じっと自分を観ている眼があるような気がしてなりませんでした。・・略
 
  ・・コペル君は妙な気持ちでした。見ている自分、見られている自分、それに気がついている自分、自分で自分を遠く眺
 
 めている自分、いろいろな自分が、コペル君の心のなかで重なりあって、コペル君は、ふうっと目まいに似たものを感じま

 した。>・・・ここなどの描写はボクに言わせると悟りの導入部だ。その後、叔父がそれをコベルニクスの地動説とそれま

 での天動説でもって、人の心持ち、つまり子供の自我(天動説)から大人の自我を空に転じた自我(地動説)の心のあり方

 を説明する。(しかし、もちろん仏教用語(自我とか空とか)は出てこない)

 この後<人間分子の関係、網目の法則>という話では、ボクが鈴木大拙に学んだ華厳哲学そのままなので、この著者は

 仏教をよく知っているのではないか・・とすら思った。鈴木大拙は云う。<この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解

 される時に、“愛”が目覚める。なぜならば、愛とは他を認めることであり、生活のあらゆる面において他に思いを致すこと

 だからである。・・・云々。  兎に角、この本は近年にない掘り出し物だ。

 じつは、この日曜、サトコさんが中学生の息子、碧人君を連れて我が家に来るので、この本を進呈するつもりなのだ。