拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 仁王の慈悲

 今の相撲界の問題についてボクなりに考えてみた。

 日本における伝統的様式による修行はどんな分野にせよ一般に厳しいとされる。
 何故か? 
 その伝統としてこんにちまで続いてきた方法にはそれなりの意味があり
 一切の無駄をはぶいたやり方で 心、技、体 を最高の状態に導くもので
 その為に、一旦 自己を無にすることを要求されるからだ・・・。

 ボクは禅の修行をしたが、やはり厳しかった。
 細かい規則は、『怒鳴られて』体得、坐禅中居眠りしたり、雑念していれば警策という板状の棒で
 肩のあたりを左右2回ずつ叩かれる。そして無駄口は一切ご法度。
 俺が、私がという思いは一切奪い取られてしまうのだ。

 禅の場合は修行形式がよく整っていること、そして何より仏教の原理『慈悲と智慧』が基礎となる。
 プロの坊さんの修行道場『僧堂』では警策で叩く時は思いっきり叩くが、ちゃんと怪我をしない場所
 を叩いてくる。ボクも居士林と呼ばれる一般人の修行道場で直日(じきじつ)というリーダー役を担って
 警策を使ったが、慣れてくると上手く叩くことが出来る。
 叩かれると、集中力がもどり、寒い時だと叩かれた後ポカポカしてくる。

 ボクの場合、居士(一般人の仏弟子)として僧堂で接心という毎月一回、一週間の修行に5年参加して
 雲水たちの修行を目の当たりにしてきた。
 もたもたしている新米の雲水らは激しい警策や怒鳴りを受けていたが、イジメ…という感覚は全くなかった。

 雲水のリーダーになる若き先輩格雲水たちは皆、非常に立派な人格でボクは年下の彼らを尊敬し、禅の修行
 でもっとも影響を与えてくれたのは彼等だったと思う。
 彼等は時に直日というリーダー役、時に侍者(じしゃ)といって茶礼などの準備する直日の補佐役
 時に典座(てんぞ)という炊事役… をするが、優れた雲水はその役、役にじつになり切って
 役目を果たす姿が清々しかった。そういった姿にどれほどボクは学んだことか。

 相撲とか伝統を重んじ、尚且つ人物を磨き上げるゆえに人々の尊敬を得る、いわゆるスポーツとはまた一味
 ちがった形式の組織というのだろうか。そういう中では先輩や師匠からの叱咤激励はなければならない。
 あくまでその人物を育てるという慈悲心を前提にしたうえでの話であるが・・・。

 そこにこそ『和』の文化、日本独自の文化を感じさせるものが生まれてくるのではないだろうか。