拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 鏡哲学


  今はなき高校時代の仏像模写と自画像

 鏡哲学…なんて云うものは、無いとは思うんだけど。
 第一、哲学がなんかわかってない自分がこの言葉を使用するところから洒落臭い。

 しかし、自分の貧しい耳学問からすると、それがどう考えても『鏡哲学』と思えるんだよな。
 昨日自分史を書いた時、高校の時ゼンゼン勉強しなかった…、友達が一人もいなかった…と書いたが
 自画像は描いていた。その時、鏡を観ていたわけだ。
 ボクにとって『鏡』の重要性に気付いたのは20歳の時であったが、この高校生の頃、多分何かを感じていたのかもしれない。
 当時、仏教なんてなんにも興味がなかったのに、菩薩像を模写していたのが、不思議といえば不思議だ。

 鏡をみてガマの油(あぶら)ならぬ、無我のあぶらを知らずに流してしたのだろう。

  (*ガマの油〜いまどきの人はガマの油なんていう言葉すら聞いたことが無いだろうけど。子供の頃みた時代劇には
    必ずと云っていいほど、貧乏侍がガマの油で作った切り傷に効く軟膏を大道で売るシーンをみかけたものだ。)