拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 群青の海へ… 平山郁夫著

去年2017年10月、尾道を2泊3日した最終日、ホテルの地上階が船乗り場でそこにある海図を見ると
幾つか島巡り図があり、生口島という島に平山郁夫美術館というのがあった。

平山画伯については、ボクが丁度禅修行のために日本に帰国している時(例えば1987年、画伯が57歳、ボクが35歳)
『敦煌への道』とか『シルクロード』とかのキーワードでメディアで報じられていたことを覚えていた。

この日は天候不順、そのうえ生口島へ行く船も出たばかりで半ば諦めかけていたが、バスが島に架かる橋を渡って
出ていると云うので決行。尾道から向島、因島、生口島と渡って平山郁夫美術館を訪ねた。

煙雨の中、灰色に近い緑の木が生い茂る景色が過ぎ、ここの特産なのかレモンが木になっている風景が続いたころ
美術館に到着した。(国産レモンの3割を生産しているという)

1997年に開館したという平山郁夫美術館は中に入ってそのゆったり、そして堂々と気品に満ちた空間に
これがたった一人の画家の為の美術館であることにまず驚いた。
館内すべての作品を見終えたとき、偶然の気まぐれでここに来れた幸運に感謝した。
その時に売店でかった2冊のうちの一つが中公文庫『群青の海へ わが青春譜』で画伯が58歳の時書かれた本であった。

本当にいろいろ考えさせられる本であったが、
なによりも、昭和20年8月6日の広島原爆の画伯自身の体験が克明に記されている…内容に衝撃をうけた。
それは彼が15歳の時で、同年8月15日終戦。
昭和22年春、同校教授であった大伯父の勧めで東京美術学校日本画科に入学したのが16歳のときであった。

ボクは人生における『師弟』関係というものに非常に興味を抱いているが、平山画伯の場合にこの大伯父
がまず大変な影響を彼に与えていて、そういったところを楽しく読んだ。

画伯が25歳の時、5歳年上の同級生と結婚。家賃千円のアパートに十年暮らした睦荘の貧乏暮らしの様子や
その後2人の子持ちと原爆後遺症の発症が重なる中、画家としての迷いなどが綴られる。
体力がいよいよ衰える29歳の時、強行軍である八甲田山へのスケッチ旅行にあえて参加したが、
帰宅後、突然砂漠をえんえんと歩いてきた僧がオアシスにさしかかった情景の絵の着想を得たという。

その絵がこれだ。

   『仏教伝来』…玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師)の17年に及ぶ求法の旅姿に平山画伯の画家としての道を拓く
    ものとしての確信を得た図。