拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 犀角独歩

 60歳過ぎを『還暦』とは、本当によく云ったものだと最近もつくづく思う。
 去年退職し、本当に少しずつ少しずつ過去のことを振り返り、反すうするが如くの中で、いろいろなことがわかってくる気がする。

 最近、禅修行の思い出から、とても大切なことに思いが至った。

 鎌倉、円覚寺のまずは一般人が修行する道場『居士林』での修行、後に居士のまま老師の弟子となって、摂心を中心とした僧堂での修行と
 だいたい足掛け6年の禅修行を行なった。
 その間、寺に支払ったのは居士林での食事代…いくらだったか忘れてしまったが、実に微々たるものであった。
 で、正式に老師の弟子にしてもらうときに払った相見料…というのだったか?たしか3000円ぐらいだったような…

 兎に角、何を言いたいかというと一旦、修行をやると腹決め、認められると金はほとんどかからなかったことだ。
 よく教団に入信したなどが、お金をいくらいくら払ったなどという話を耳にするが、ボクが行った円覚寺ではこちらが申し訳ないほど金がかからなかった。

 そして、最近まで特に何とも思っていなかったことで、よくよく考えるに実に重要な教えであり、これぞ禅…と言えることに気がつくのだ。

 それは6年に近い禅の修行中、『仏教徒になれ』とか、そういうようなことを一度たりとも言われたことも聞いたことも無い…ということである。
 だからなのか、禅の修行中ボクは宗教を修行しているとか、仏教とか宗教臭いことは一切考えたことはなかったのだ。
 居士林にいたときには『数息観』に、僧堂で修行してからは『公案』に集中するばかりで、その他の一切からじつは開放されていたわけだ今考えると…。
 僧堂で4,5年修行してボクの年齢も40に近づいていったので、その旨老師にお話してスイスに行くために、修行をやめることを話たときにも
 『そうだな、頑張んなさい…』それだけだった。禅は『来るもの拒まず、去る者追わず・・・』ということは知っていたが、まさにその通りであった。

 ボクはそのことを、こんにちまで何とも思っていなかったのであるが、最近その禅のあり方が実に釈尊が云ったという『犀角独歩』=『犀の角の如く、ただ一人行け』
 の教えを見事に表している、禅の生き方をよくよく体現している素晴らしい出来事であったと理解することができる。

 人間は『社会的動物』ということで、一人では生きていけない存在であるが、仲間と群れるばかりではどうしても様々な問題を生み出す生き物であることも事実。
 基本的には独歩で、協力するところは互いに思いやりを持って接していく…といったような教えが『禅』の基本にあるのではないだろうか。

 

  先日話した『練功十八法』体操をしている若き一撮