拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

西瑞習慣篇〜気配りの抜本的改革をのぞむ

どこのドアであったか忘れたが、青年がドアを開けてボクが来るのを待っていてくれた。〈メルシー〉と言うと、〈サービス〉と返事があった。

 日常よくある風景なので別に気にとめた事はないが、日本から来たばかりの時は、どうも日本とは違うな・・と良く思ったものだ。

 いろいろな場面で西洋人は気配りが良くないと常々おもっているのだが、このドア問題だけは異常に後ろの人間に気を配るのだ。(日本ではドアを開けるとき、いちいち後ろの人に気を使わなかったような気がする。)
 ボクの推測では、昔のヨーロッパのドア(特に公共の場)はだいたい重厚で開けるのにかなりの力が要り、なおかつ開けたドアが反動で戻るとき重厚なドアに当たってケガをした人が沢山いたのだと思う。(事実、ローザンヌ駅のドアは昔のままでかなり重く、誰かが開けたドアにまともに当たれば間違いなくケガをするだろう。)

 多分そのな様なわけで習慣化してしまい、薄いドアでも後ろから来るひとのためにドアを開けて待つという、美しい習慣が現在でもつづいているのだ。しかし、僕なんかはそんな理不尽な習慣を少しずつ破壊せんとしているのではないかと自問、葛藤しつつ、ドアを開けている日々である。第一自分のペースでドアに向かっているのに、誰かがドアを開けてボクが来るのを待っている・・したがって、急ぎ足でドアに向かうはめになる・・・。そんな必要がないのに。

 そんなところに気を使うなら、店員は客が来たらさっさと対応しろ!

               通行人が一杯いる駅の通路の真ん中でながながと井戸端会議するな!

               など、など・・・もっと基本的なところで気を使ってもらいたいのだ。(愚痴るつもりは無かったのに・・・うちに秘めていたものがでてしまったか?)