拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

写真考・琴線の音色

  昨日の続きを書くが、何故そんな事を決心しなければならないかというと、

 例えば2009年にアルルの写真フェスティバルのフォトフォリオ・レビューに参加した時の究極の感想は
写真を評価する側の人々(エディター・キューレター・ギャラリスト・その他)には<私にとって写真とは、これだ!!>という信念を持っている人々なのである・・・ということだ。まあ、そんなことは何も、これに参加せずともわかっていたことであるが、あらためて痛感させられたのである。

 ボクだって写真家であるから当然<ボクにとって写真とはこれだ!!>という信念をもってやっているわけで、21,2歳の頃ですら、写真学校で先生やクラスの人に見せるときは、真剣勝負の自覚を持っていた。ボクは相手にきれいに自分から一本とってもらいたい・・・といつも願っていた。さもなければ一本とるぞ!!とも思っていた。万事にこういう性格であったから、今考えると、写真の場は別として、何事かを友と論じていたとき、知らずして、或いは知りながらもどうしていいかわからずながら、人をずいぶん傷つけてしまったような気がする。それを自覚したせいか、まだ若いある時期からほとんど議論をしなくなった。議論すること自体には興味がなかったが、それで自他共に伸びるなら・・とおもっていたが。

 話がだいぶそれたが、フォトレビューの先生方も、(は、)良く言えば<自己の信念によって>、悪く言えば<偏った物の見方>がそれぞれあり、それはそれで尊重せざるをいえない各自の考え・・・というもので、評価される立場のものがどうこういう問題ではない・・・フォトレビューとはそんな場であるのだ。

 例えば、生花の師匠が、弟子の生花を見て<こんなのは生花ではない!>と断定するようなもの。師匠には確たる生花に対する信念があり、弟子はそれを学ぶのであるから、師弟関係の時はビシビシとなんの躊躇もなく裁断することが出来る。

 最近、58歳という歳のせいか、弟子どころか、満足にボクの写真を見てくれる人も周りにいないのに、 遠慮無く自分の意見を言ったらどうかな、と思いはじめている。(独り言、如きもの)

 だいぶ以前に一度書いたとおもうが、ボクにとって写真とは、<ボクの琴線の音色>なのだ。
 それが何かは<不立文字>、文字・言葉で説明できないもの・・・と言っておこう。