拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 エマニュエルは何故…

 

ぶらっと街歩き、街一番大きい本屋のショーウィンドウをサッと眺めると相変わらず日本関係の本がこのように⬆︎⬆︎
展示されている。これを見ていると本当にこの辺の人は(スイス人など)日本文化に興味を持っているんだな〜と感心。

と同時に、3月23日にブログに書いたようなことが何故起こるのか? エマニュエルは何故、『Zen』を攻撃するのか?
それに対する答えがこの一瞬に少し見えてきた気がした。

兎に角、今のヨーロッパには日本文化が至る所に溢れている・・・気がする。スシはもう完全にヨーロッパの板についている。
ジュネーブでもローザンヌでも日本食品店は大繁盛。学生たちの間ではコスプレ文化や漫画、アニメ文化などもすっかり定着。
エマニュエル(Zenをボロクソにこき下ろしている講師)自身が云っているとおり『Zen』という言葉はヨーロッパの至る所に散見…

だから、Zen自体が一体何なのか?誰もわかっていないのに『我がヨーロッパにZenが侵入…』つまり、彼にとってZenという
『曖昧』なものに自国民(ヨーロッパ人)が夢中になっている現実に我慢がならない・・・のだろう、と推察。

そして、ボクはエマニュエルのくれた命題のおかげで、禅の働きについてよりグローバルな視点を得た気がする。

Zen=禅は人間性の究極の姿(一挙に話が飛躍するのが一撮流)は AIの働きによってそれを失う方向性に向かう最後の歯止めとして
必要不可欠な役割を果たすための準備期間なのでは・・・。

仏教というのは釈迦の『悟り』から発している。だいぶ後になるまで『経典』すらなかった。
釈迦自身、最初は『教えるつもりはなかった』という。悟りの内容を教えるのは不可能だと思ったようだ。

後の仏教はその経典を軸にして教え始める教祖がでてきて、それぞれの宗派を形成した。
その中で、禅宗は釈迦と同じ悟り体験をへて仏道を歩むべく、『教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏』の宗旨を
掲げて達磨大師が中国にやって来て広めた宗派である。

禅には経典がなく、しかも人の心に直接訴えかけてくるもので、それがわかった時、自ずと成仏… ということで
このブログの題名『拈華微笑』はそのいきさつを端的にあらわしている。
ある日、釈迦はいつもの講義をする代わりに華を一本掲げて弟子たちに示した、皆意味がわからずポカーンとしている中で
一人だけ微笑み返した弟子がいた。こうして仏陀の教えが伝えられた…というのだ。

禅の教え=修行は通常の教えとはかなり違う。『悟り』に導くうえで無駄の一切を省き、覚醒にむけて全身全霊を傾ける事を強いる。

しかし、一旦その方向性がきまれば、寛容でポジティブな生き方が自ずと出来る。
その過程で様々な文化を生み、それを深めることで覚醒に近づく…こういった良循環式、仏道を禅(Zen)は人々をして導く。