拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

沈黙に 転んだ後の 静寂や…

スコセッシ監督の映画『沈黙』、日本では2017年の1月公開だったようだが、ということはスイスではその少し前だろうから、2016年の12月頃として約2年前にボクはニコルと友人のベアトリスの3人で見に行ったのだけれど、

このほど、アマゾン・プレミアムで『沈黙』を見て初めて見るかの如く感動に、ショック。

確かに大画面で見たはずなのに…、アイパッドで見る日本語字幕付き…のほうが断然良かった。大画面の方は英語オリジナル版でフランス語字幕であったが、やはり耳は英語を追っかけ、眼は字幕と画面を追う…というのはボクには無謀であり160分の長丁場に居眠りもしていたと思う。

だいたい、最最初に蝉の鳴き声がピタッと止まって『沈黙』−Silence−のタイトル文字が出るあたりからして、前回見たという覚えがまったく無かった…のがどうも不思議。

で今回、こりゃ…知ってか知らずか?芭蕉先生の『閑さや岩にしみ入る蝉の声』を前面(全面)にもってきて『沈黙』を強調している…とボクは直感した…。

そうなると、もう一撮流映画解釈はもう止まらなかったのだ。

随所にユニークな勝手解釈が炸裂してしまった。

例えば、キリスト教が日本に根づかない理由として『日本は沼だから…』という表現を使ったところで:そりゃそうだ、だから日本では蓮の花(仏教)を咲かせたのだろうよ。

だいたい、『沈黙』という言葉自体、言葉を発する誰か(神)が沈黙を守っている状態を表して、いつの日か発言するだろう…という期待を含んでいる。それは仏教がいう安樂を表す完全な静寂『涅槃寂静』とはまったく違っている。

だから、本当の安心とは 沈黙くすらだまらせた後にくる静寂の中にこそ見いだせるものではないのだろうか。

よく『転ぶ』キチジロ〜も、達磨さんの七転び八起きを想起する。

そこによく、仏教の慈悲と智慧が活かされているとおもうのだが…。

最後のシーンで原作にはないそうだが、スコセッシ監督の蛇足で、ロドリゲスの遺体に

十字架の木片を手に持たせたが、そうでもしないと話は禅仏教になってしまうかな?

ミイラ取りがミイラになってしまうような…。

俺なんかスイスに来て、何回転んだか!!そして多分まだ立ち上がってない…

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   ニュヨーク郊外の禅堂にて(33年前)