拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

置き去り家族〜万引家族

我がスイスはローザンヌに、カンヌ映画祭で授賞した例の映画『万引き家族』がきた。

ネット評判は凄いし、地元友人もベタ褒めでするので、行って見た。

まぁ、ニコルが居眠るのはいいとして、ボクも日本映画の独特のノロイリズムにウトウトしてしまった・・・。だから多分かんじんな所を見逃しているので、ボクには多分この映画について語る資格はないだろう〜か?

ただ、ボクが引っかかったのは、この家族の万引き…で、大黒柱の二人が働いているのだからリスクの高い『万引き』の必要があったのであろうか・・・ということであった。あのぐうたら親父が、息子(もどき)が施設にバスで向かう時、走って追っかけるシーンに、え〜っそこまで絆が深かったのか〜っ、と思ってしまった。

この映画のポイントは血縁家族から何らかの理由ではみ出てしまった人間達が、血縁でない者達どうしが寄り添って家族を形成する様・・・ってなところかな。

そこで、ボクはつくづく自分の生い立ちについて考えることになった。

ボクの本来の家族はボクが産まれた時に母が患ったことが多分原因なのか、若かった父親が妻子を置き去りして蒸発してしまったところから始まったのである。

6歳年上の姉は孤児院へはいり、ボクはいろいろな人に預けられるが夜泣きがひどく、7軒目にしてようやくボクの育ての母となる菊池のトキさんと出会った。トキさんにはその時すでに、10歳と13歳の娘と息子がいたが、どうも血縁はなかったようだ。

ボクが面倒みてもらっている間にも短期間であったが、3〜4人の幼い女の子達を入れ替わり預かって面倒を見ていたから、なんだか妹みたいな気持ちになった頃に親に引き取られて行ってしまう…というようなことが何度かあった。

で、ボクが小学校に入学すると実の親のところから学校に行くようになり、実の母と育ての母の間を行ったり来たりした時期が高校まで続いた…。

そういうような体験があったから、ボクは血縁、無血縁にまったくこだわらない生き方を学んだのだと思う。

だからこの映画の表現する家族は『万引き家族』なのではなく、人情によって引き合う世間の『万有引力』による『万引家族』であったのではないかと思うのだ。

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先日行ったGstaad(クスタード)での例のコンテンポラリー・ギャラリーの作品は

『置き去り』を、右の写真はギャラリーを出た時、通りを走っていた『寄り添う』を…