拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

お悟り…

自分の頭の中では『いつも日本語』で考えているから、常に日本語で話している気になっているが、現実は『独り言』なのだ…。

 

そう思ったのは今日、久しぶりに日本人の友人と話していると、(バカ話であればそうわ思わなかっただろうけど)30年付き合っているけど、初めて宗教とか禅の話になった時に、自分とは違う考え方を示した…のだ。まぁ、当たり前のことなのに、ボクの脳は新鮮な刺激を受けたらしく、反応を示した時に、嗚呼〜やっぱり会話はするもんじゃな〜・・・とつくづく思ったものです。

自分とは違う意見の存在、それは頭ではわかっていてもライブでその存在を知ることはまた違う意味合いを持つことを痛感したように思う。

彼は宗教とかを毛嫌いし、胡散臭いと思っているかと思うと、禅の悟りを一般の人間には想像もできないような、それこそ不立文字をしっているのか、言葉では言い表すことができないもの…と認識というか本で読んで思い込んでいるようであった。

つまり、悟りを自分より数段次元の上のもの…と考えている。

それであれば、いつまでたっても絶対に悟ることはできないだろう…と思うのだ。

釈迦の『悟り』はそれこそ人間にとって第二の認識革命であったのに、『お悟り』と、崇める位置に神棚?なんかに崇め祀っていては決して分かるものではなくなるのは当然なのだ。

 

お悟りは 郷里(さとり)と読んで 覚もの 近いもなにも お前そのもの : 一撮

 

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    べつな友人の赤ちゃん・・・悟りの塊で世界を照らす子