拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

カンジのない世界〜2

 漢字のない世界はカンジにくい世界であるという事。

我々は漢字が身に染み込んでしまっている人間である、という認識は、一度外国に住んでみて日本という国がホンマに島国であるのだな〜という認識と同質だ。外国に住む以前は誰も自分が日本という"島"に住んでいるという思いを普通持っていない。

それと同じように誰だって西洋に行ったら横文字アルファベットの世界で漢字なんか目にしないという事は当たり前だから、自分は今からまったく漢字のない世界に行くのだ・・などという思いすら持たないだろう。

 しかし、自分は外国に行ってその国の事を学ぶのだ、或は日本の何事かを教えるのだという気持ちで出かけても、いずれ犬も歩けば棒に当たる的に、この辺のカンジに思い当たるようで、案外それに気が付かないもののようだ。

 いつまでもここに住んでいながらまったく進歩しない自分の語学を自己分析するとこういう不甲斐ない結論は、逆にここに生まれ住む西洋人が日本を攻略しようとしても難攻不落の鉄壁の城であるのは、やはりこのカンジなのだという、わけの解らないもう一つの結論を導いた。地理的には海に守られ、文化的にもカンジで守られて島国は安泰である。

 一方、釈迦の悟りを拈華微笑、つまり華を弟子達の前に示し、その中の一人の弟子が微笑みで釈迦に答えた。というように
不立文字、教下別伝、直指人心、の世界がある。

 それぞれの人の背景にどんな文字が横たわろうと、無心の微笑みは人の心を暖かくするのは確かで、そういう次元の生き方もあって、だから、ぼくでもディランがわかり、レノンに共感、ピカソに微笑み、ゴッホに風をカンジるのだろう。