拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

 秋桜(コスモス)

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今回、移行したブログにはお絵描き機能が備わっているので早速試してみた図

 

昨夜は月一回の俳句会がVeveyで催された。

その前に毎週土曜、3時間のバトミントン・ダブルスの混戦を1時間半で切り上げて湖畔の喫茶の俳句会にぎりぎりまにあった。総勢10名中、ボクは黒一点、日本人は指導役の女先生とボクの二人であった。

最近、この俳句会でボクはスランプ気味で俳句が一向に出来ないで困っていた。

この会はだいたい、地元スイス人の俳句がメイン。それもゆる~い、俳句会で日本の俳句のように5・7・5にとらわれずに…ということで、俳句とは言い難い長々としたポエムで、情景を詠んだものがほとんどで心情を詠んだようなものは稀だ。

会を主催している日本人の方も、有名な俳句を紹介する程度でそれに関する深掘りした解説はしないし、この会に集まる者にも俳句を詠むにあたってほとんど何も要求をしない。30〜40分題を与えて俳句を練って各自その俳句を皆に披露してそれだけである。

良く言えば誰でも参加できるゆるゆるの俳句会であるが、一切の指導がないので、題を与えられたら各自思い思いに作俳に集中する…初めて参加する人の中には何をしてよいのかわからず戸惑っている人もいたが、昨夜も奥様の一人が途中で帰って行った。今週のテーマは『コスモス』であったが、コスモスと聞いただけで山口百恵のあの歌の秋桜のメロディーが頭をいっぱいにして他には何も考えられない状態に陥り、ああ今日も何にも詠めないかなぁ〜・・・なんて、ペンを持ちながらもノートに何も書けない自分と隣に座って何も書かずにじっとしているマダムに同情。

そのうち、『コスモスが 秋の桜の 日本人 : 一撮 』とノートに書き始めたあたりから少しエンジンがかかり始めた。また秋のイメージから『枯れ葉』を思い浮かべ

フランス語を見ると『feuille morte』となり直訳すると、『死んだ葉』となることに大いに引っ掛かるものを感じた。ここのあたりに日本文化と西欧文化の違いが大いにあるように思えたのだ。

だいたい俳句が万人の心をうつのは『枯れ葉』を死んだ葉っぱと割り切った見方ではなく、枯れる状態から死に至るまでのニュアンス(生き様)に何モノかを見出す喜び…

そういったところに感動が呼び起こされるのではないだろうか。

そういつた気付きが無いところに、俳句は無いような気がするのだが。

それと、俳句は兎に角短い…ボクにはちょっと短すぎる。てなことで

いままで、我慢していたが外人さんのルールを無視した俳句もどきを聞いていたら

まぁ、短歌でもいいから練ってみっか!・・・とも思ったのである。