拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

『間』を悟った人 = 人間

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一撮流解釈だけど、人をして『人間』という言葉を創作した中国人はなんと素晴らしいのだろうか…と最近考えている。

日本では昔から『間』が大事…てなことを言われていたので、日本人であれば誰でも聞いたことがあると思う。特に芸事に関して『間』ということをやかましく言うようだ。

一応ググってみると

ーー『人間』は仏教用語でサンスクリット語『Mamusya』の漢訳。(音から、間無者と聞こえるのが面白い…)

仏教語としての『人間』は世の中、世間、人の世…を意味した言葉で『人間』に『人』そのものの意味が加わったのは江戸時代以降 ーー。

そうだったのか、『人間』はもともと仏教語であったか!

しかし、そうであっても漢訳の『人間』は世の中を意識した人と人の関わりを表す意味で『人間』であったか。・・・

しかし、後の唐代の禅僧、臨済なんかは違う『人間』を解釈したに違いない。

彼は各々皆の中に『無位の真人』が息づいているのだから、それを証明してみよ!

と修行僧の胸ぐらを掴んで『喝!』を入れた、それがボクの言う『人間』の字源だ。

だいたい、最初の漢訳者が『人間』を誤った訳をした可能性もあるし…。

いや、これが『禅』の活き方なのかもしれない。あくまで人間を深掘りした解釈が。

『人』が『間』を悟った時、人は本当に『愛』を解し、その生き方は二つの『間』に風流を吹き込むのだろう…よ。

追加:そうそう、大事なことを忘れていた。

自分が『間』に行き着いた、もう一つの事…それはアメリカの脳解剖学者Dr.Jill Bolte TaylorのYoutube動画と著書『奇跡の脳』による、右脳と左脳の話だった。

 

 

音楽は情熱の波動か

この季節にローザンヌで毎年行われ、今年で21回目を迎える『Festival BACH de Lausanne』フェスティバル・バッハ・・・これに関わっている知り合いのおかげで昨夜は素晴らしいバイオリン・ソロに遭遇した。

我が家から徒歩11分にある街中の教会でそのコンサートが行われた。

普段、クラッシック音楽にあまり縁のない無教養な自分にとってクラッシック音楽は興味がある反面、下手をすると睡魔に襲われて醜態をさらす恐れがつきまとう諸刃の剣…

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しかし、この人がひとたび弓を引くや、その懸念はぶっ飛んでしまった。

彼女の名は Monica Huggett… 曲名も何も知りやしないが、その音色と演奏している様は人をして引き込まずには置かない『何か…』があった。

休憩を挟んだ後半ではバッハを演奏中に弦が突然切れて『こんな事は初めて…』としばらく途方に暮れていたが、『弦を張り替えます』と控室に。

その後最後まで演奏した。

観客は総立ちになり、拍手はなりやまなかったのだ…

東洋の真髄

二十歳から二十九まで写真一辺倒だったのが、どういうわけか東洋医学を入り口に禅修行、練功十八法、太極拳の気功法そして一週間の断食、滝行などなど東洋文化に浸りきった三十代であった。新米鍼灸師として治療所でも働いた。

そういった経験から自分が考える東洋の真髄とは…『予防だ!』といつしか思うようになった。医学はもちろん、仏教でも貪瞋痴にとらわれている者を無明と云い、未来を見通す智慧や慈悲の心の働きの無いことをいう。

そういった意味では、一撮が小学生の頃、映画は時代劇、漫画で伊賀・甲賀の忍者ものを夢中で読んだりして多大な影響を受けたが、こういうものも東洋文化の大事な心得の一つ、『用心せよ』…というものでなかったか、と今にして思うのである。

 

 

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秋深し、天才の文字は読みにくい

訳してもらって、文句いうのもなんだが…

まぁ、家に帰ってからゆっくり調べればいいヤ〜…なんて思ったのが大間違い。

語学の天才君の書いた文字、下手なうえに小さくて癖のある文字でよめやしない。

こんどいつ会えるかわからないけど、その時確認するしかないか…。

日・スイス文化交流という名目で日本語と仏語、相互教授する場をネットで呼びかける

タンデム(2人組)と呼ばれる会に春頃から参加して、いろいろな人が来て面白い…という話を以前したが。

その中に、まさに言語の天才では?と思えるお兄さんと出会い、ボクの写真に添えた日本語の短歌をフランス語になおしてもらえたら…と思い、すでに出来上がっている手作り写真集をみてもらったのだ。

相方や友人などの助けをえて、ボクの短歌をそれぞれ仏、独、英の三カ国語で訳してある文と写真を見てもらった。

そのときにこの天才君、三カ国語をスラスラと読みくだし、フランス語とドイツ語はまあいいけど、英語はちょっと…、とすぐにボクの採択でGoogle翻訳で助けられた訳の貧弱さをすぐに見破られてしまった。(流石!!)

彼とは今回2度めの対面で、前回会った時語学の大切さを力唱していたと思ったが、中国語、日本語そして母国語のフランス語の他に英語、ドイツ語が堪能であるとは…、片親がアルジェリア人だから多分アラビア語なんかもできるのであろうか?!

まぁ、天才という言葉は知っていたが、対面するのはもしかしたら、今回はじめてかも

一撮辞典によると、天才とは〜ある分野において、普通の人にとって、不可能事をなんなくやり遂げる才能の持ち主・・・っていうようなところかな。

彼の場合は言語なんだけど、今現在『百人一首』の和歌を暗記している最中だそうだ…

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レマン湖の風景を『いぶし銀』を使って一句詠んでみました…これを

彼に英訳してもらいましたが、さすがの彼も、『いぶし銀』…はなぁ、、、

    Fall has  come

              This  sober  season

              In the lake,    a  fisher  let  his  line  fall...     :    Ittusattu

沈黙に 転んだ後の 静寂や…

スコセッシ監督の映画『沈黙』、日本では2017年の1月公開だったようだが、ということはスイスではその少し前だろうから、2016年の12月頃として約2年前にボクはニコルと友人のベアトリスの3人で見に行ったのだけれど、

このほど、アマゾン・プレミアムで『沈黙』を見て初めて見るかの如く感動に、ショック。

確かに大画面で見たはずなのに…、アイパッドで見る日本語字幕付き…のほうが断然良かった。大画面の方は英語オリジナル版でフランス語字幕であったが、やはり耳は英語を追っかけ、眼は字幕と画面を追う…というのはボクには無謀であり160分の長丁場に居眠りもしていたと思う。

だいたい、最最初に蝉の鳴き声がピタッと止まって『沈黙』−Silence−のタイトル文字が出るあたりからして、前回見たという覚えがまったく無かった…のがどうも不思議。

で今回、こりゃ…知ってか知らずか?芭蕉先生の『閑さや岩にしみ入る蝉の声』を前面(全面)にもってきて『沈黙』を強調している…とボクは直感した…。

そうなると、もう一撮流映画解釈はもう止まらなかったのだ。

随所にユニークな勝手解釈が炸裂してしまった。

例えば、キリスト教が日本に根づかない理由として『日本は沼だから…』という表現を使ったところで:そりゃそうだ、だから日本では蓮の花(仏教)を咲かせたのだろうよ。

だいたい、『沈黙』という言葉自体、言葉を発する誰か(神)が沈黙を守っている状態を表して、いつの日か発言するだろう…という期待を含んでいる。それは仏教がいう安樂を表す完全な静寂『涅槃寂静』とはまったく違っている。

だから、本当の安心とは 沈黙くすらだまらせた後にくる静寂の中にこそ見いだせるものではないのだろうか。

よく『転ぶ』キチジロ〜も、達磨さんの七転び八起きを想起する。

そこによく、仏教の慈悲と智慧が活かされているとおもうのだが…。

最後のシーンで原作にはないそうだが、スコセッシ監督の蛇足で、ロドリゲスの遺体に

十字架の木片を手に持たせたが、そうでもしないと話は禅仏教になってしまうかな?

ミイラ取りがミイラになってしまうような…。

俺なんかスイスに来て、何回転んだか!!そして多分まだ立ち上がってない…

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   ニュヨーク郊外の禅堂にて(33年前)

 

 

漢文かいな!

今年の春くらいから?だったろうか…

日仏言語文化交流をめざし、ネットでもって運営しているTandem(タンデム):=二人組の意:というものを友人が紹介してくれ週一で参加している。

フランス語を母国語とする人と日本人が一時間ずつ交互に言葉を教え合う…というもの。

毎回だいたい8人平均集まって、語学学習。初心者からびっくりするほど上級者までゆっくりとした流れで人が入れ替わりしながら交流している。

ボクは去年までの15年間は100%ジュネーブにて引っ越し屋勤務で他の分野の人との関わりがまったくなかったから、ここで利害関係が一切ない様々な立場の人々との出会いが実に楽しい。

ここに集まってくる日本語を学びたい連中はとにかく皆、日本に夢中だ。集合場所が大学のカフェであることから、大学生や卒業生が多い。日本人も一番多いのが留学生の立場でフランス語を是非学びたいという若者か、或いはボクみたいなローザンヌに住んでいるオッサン…と言おうとおもったが、そんなオッサンは目下のところボクだけだ。

スイス人でボクと同年輩のオッサンが一人、常連で毎回きている。日本語もペラペラだし学ぶこともない…と思うが、フランス語を日本人に教えるのが楽しいのだろう。

先週は寿司の板前業をしている、スイス在住8年の日本人男性がきた。一見板前にはみえなく、IT関連の職員かと思える雰囲気を出していたが、話してみるとじつに『アナログ』なので驚いた。『最近はスーパーの入り口そばに、寿司弁当なんかが置いてあって、寿司のバリューがかなり下がった…』と嘆いていた。次回時間をとってヨーロッパにおける寿司業界の様子などを聞きたいと思う。

それとここ最近、タンデムに集まる連中のなかで、漢文をやっているスイス人男女、それぞれに出会って正直驚愕した。

外国人にとって、話すことはとにかく漢字を読み書きすることがどれだけ大変なことが容易に想像できるのであるから、それよりもっと踏み込んだ『漢文』を読みこなそうと

努力している外人さんを見ると自ずと『敬意』の念が湧くというもの。

ボクは数学も嫌いだったが、古文漢文も大嫌いで何にも読めないが、今になって高校で古典を教えていた上品な女先生の顔を思い出しては後悔している。

これも先週初めて出会ったジュネーブ大学、日本語科3年生のスイスとアルジェリアの混血男性が来て、半端じゃない語学力と学問に対する底なしの情熱を見せつけられ、我が仏語熱も若干であるがヒートアップしたのである。

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それぞれの『門』

こういうのも『縁』というのだろうか。

というのは、鈴木大拙さんに会いたい(というか年に3回ぐらい彼の人柄に接したい気持ちが起きる事)気がして、大拙の自称弟子を自認している志村武著『鈴木大拙に学ぶ禅の人生智−ありのままに生きる』という著者が23歳の雑誌記者であった時、76歳の鈴木大拙に取材して以来、人柄に惹かれ、それから大拙がなくなる96歳までなにかと教えを請うた、その体験を記したこの本、2度目の再読になるが、その出だしから夏目漱石の小説『門』の主人公、宗助の生活心情の吐露から始まり、後半にはタイトルとなる北鎌倉の円覚寺の門をくぐって禅に参じ、再び日常生活に戻っていく…という内容を織り交ぜながら『ありのままに生きる』とはどういうことなのかを掘り下げる体裁になっていた。…?というのはなにせ、昔読んだのは今から28年前で、漱石の『門』がこの本に書かれていたことも、この門がボクが修行した円覚寺の『門』であったことも今回再読するまでまったく忘却してたか、単に知らなかったか…。

それで、この『門』が気になって早速、I-Tunes Book で漱石の作品が無料でダウンロードして読み始めた。漱石の『門』自体にはボクは正直特に反応しなかった。そこでYoutubeに助けを求めると、奇特な人がいて読書感想を聞かせてくれる人がいた。その人は3度も涙するところがあった…そうだが、やはりボクとは感受性が数段高いところの人のようで、本以上にこの人には関心した。

この本を読んでいる最中に偶然に大昔、36年前ボクが30歳の時(1982年)、それこそ円覚寺の『門』をくぐって一週間の学生接心に参加し、それをやり終えて親友のタカヒデと一緒に写っている写真を見つけた。

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接心という一週間集中『禅修行』はこの時初めてのことで、ボクには結構キツかった。

終了の最後の朝、学生のリーダー格を直日(じきじつ)が挨拶した時、参加者の殆どが感無量の思いで泣いていたが、若い学生に混じって30歳になるボクも泣いたっけ。

これが、ボクが『門』を叩くキッカケとなった。

小説『門』では宗助は10日間の修行をして、漱石にこう言わせている…

『彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』…

ここを読んだ時、ボクは漱石と大拙のあまりの差に驚いた。というか呆れた。

こんな人が、禅寺の『門』をタイトルに小説を書いたのか?!…と思う。

まぁ、それはともかく志村武著の本『ありのままに生きる』の最後の方に著者が大拙にした質問『人間が生きていく上に、最も大切なものはなんでしょうか?』

 

大拙『平凡な言葉だけれど、愛ということが大事ではないかな。仏教でいう無縁の大悲、無縁の大慈だ。そして生きがいを自覚することが、信仰でありそれが『誠』で、それは自分をむなしくすると、『誠』がおのずと心の中に湧いてくる。その誠をもって他人のために労力を惜しまず働くのだ。そこでもう一つ必要なのが『詩』だなぁ。詩がないと、人間の世の中はギスギスしてしまう。月は月、花は花だけに終わってしまっては、殺風景この上もない。詩の世界に遊ぶことを忘れてはならんなぁ。』

 

ム~っ、ボクの場合『詩』に遊ぶことはまあまあだが、問題は『誠』だなぁ…。

 

それと『門』が開くかどうか、そんな事どうでもいい。門の前で開くまで『無〜ッ』とおのれをむなしく…するのみだろう漱石さん!