拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

クリスマスに仏陀考!

 本場のクリスマスを堪能。ニコルの父方の親戚総勢28名,7歳−88歳まで集合した。
 
 ボクが初めてこのパーティに参加したのが18年前、ニコルの従兄弟の子供達が7人、1歳−12歳だったのが,上はもう30歳にもなっている。でも皆初めて会った時と全く変わらない温かさでボクを家族の一員として迎えてくれる。

 当時はボクはフランス語が全く話せないし,彼らのほとんどが英語を話せなかったのにもかかわらずボクは皆の中に溶け込めていった。とくに子供たちとは言葉の壁はあまり問題にならない、色々な遊びを通して心をかよわせることが出来た。
 その彼らがそれぞれの道に飛び立ととしているのを,こうして毎年眺めていると不思議な気がする。超長編大作の映画を3Dで見ているような感じだ。ついこないだまで,はなたれ小僧みたいだった奴が青年然としているのが清々しい。

 この日の夜、寝床でボクは仏陀の誕生のことを考えていた。仏陀が生まれたとき,7歩あるいて”天上天下唯我独尊”と宣言したことを考えていた。キリストの唱える愛に刺激されて,仏陀のこの宣言を”愛”の面から・・・と思ったようだ。
 
 結論として,仏陀もこの時、”愛”を宣言したのだとボクはハッキリわかった。生命というエネルギーが、愛というエネルギーに脱皮した時に"仏陀のこの雄叫び"が成されたのだと。何故なら、"愛"というのは自他を超えたエネルギーであって、それが一人ひとりの中に目覚めさせなければならないものとして宿っている、それを実現した釈迦は喜びにあふれて”唯我独尊”と言ったのだと思う。我欲の塊である人間にも普遍の愛に目覚めることが出来る!という宣言で脱皮それ自体は人それぞれに委ねられているという人としての限界がある故にこそ、目覚めた人を”唯我独尊”と誉め讃え,かつ貴方もこちら(彼岸)へ来ませんかと促しているのだ。

 仏教というのは人間観察のなんと行き届いた宗教かと思う。ふつう仏教では”愛”という言葉を使わない。智慧と慈悲といっているが、”禅”はそんなこともいわない!ただ ”無”・・・という。ボクはこれをわかりやすく”0”=Zeroという。
 人間は弱いもので最初は本当の愛であったものが、愛,愛,と思っているうちに自我愛に戻ってしまってトンデモナイ事をしているということがままある。だからZenは愛とも言わないのだと思う。人はZeroになりきっているとき愛を実現しているからだ。

 来年のクリスマスの時,この辺を切り口として、皆にボクの仏陀観を話してみようかな?