拈華微笑

我が琴線に触れる森羅万象を写・文で日記す

ボクの2018年の漢字『探』

日本で毎年行われる『今年の漢字』ということで、今年選ばれた漢字は『災』であった。

ウィキペディアによるとこの催しは案外古くなく、1995年から開始されたという。

しかも主催が『日本漢字能力検定協会』でそのキャンペーン…というところがなんとなく可笑しい。

ところで、『災』は2004年にも使われていた。この年も新潟地震や台風、浅間山の噴火、それに美浜原発の事故などがあったらしい。

それにしても、今年の自然災害はひっきりなしに脅威を示した年であったことは間違いなく、加えて安倍政権のでたらめな政治で苦しんでいる人々も多いに違いない。

そういった意味でも、来年2019年は本当に良い年を迎えたいものだ。

 

ボク個人としては、今年2018年は退職してから真っサラナ新しい年を迎え、どう生きてゆくのか…、基本的なところは掴んでいるつもりであったが、具体的な行動というのはやはり『手探り』状態。

そんな中でたどり着いたモノの二つに『バトミントン活動』と『日仏言語交流』があった。どちらのグループでもボクは最年長の方で、ボク自身は自分の年齢を忘れてしまっているが、相手にしたら『爺』なのであろうが、そう感じさせない智慧と体力を培うべく努力はそれなりにしているつもりであり、自然それが目標となって励みにもなっている。

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スイスの鍋『チーズフォンデュ』を囲んでの忘年会は言語交流会の皆さんと。

持ち寄りの料理やらケーキなどでの忘年会はバトミントンの皆。

勤め人のときにはなかった活動の中からまた違った生き方を模索していこうと思う今日このごろの一撮です。

覚悟の風景

今、五木寛之さんの『人間の覚悟』を読んでいる。

そのキッカケが、昨日たまたまYoutubeで『ラジオ学問ノススメ』で五木寛之さんとのインタビューだった。

2009年2月の放送で、その頃出版された本『人間の覚悟』を踏まえたインタビューは以前一度聞いたはずなのに、何故か今回は耳にスッと入ってきて、20年先輩の先見の明に

眼を開かれた思いをしながら聞き入っていたが、後半のところで彼が言った言葉にボクは本当に驚いた。

話の本筋は1991年頃から日本(そして世界)が大きく変化し、登山で例えると今は『下山の時期』になっていて、学者などが4〜5年の不況と言っているが、そうではなく半世紀単位の、それも500年に一度の大恐慌だと思う・・・というような話の流れの中でで彼はこう言ったのだ。

『(不況による変化)この津波はおおきいよ〜、しっかり覚悟して逃げなきゃ〜』…

これを聞いて、ボクは自分の耳を疑って、インタビューの時期を再確認した。

まぁ、これは偶然であったのかもしれないが、それにしても彼の直感力、2年後2011年の東日本大震災で実際に大津波が来、原発が爆発し,愚暗の安倍政権を迎えて彼が予測した大恐慌はさらに真実味を帯びて現在にいたる。

彼の『覚悟』は、15歳時の敗戦にともないロシアから追われた朝鮮からの凄惨な引き上げ風景が原体験となってるようだ。

これまで、ほとんど五木寛之さんの本に無縁であったが、この大先輩の生き様から学ぶことは多そうだ。(Youtubeでも彼の話を聞くことができる。』

 

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 『覚悟』という言葉には特別な思い入れがある。

鍼灸学生だった時、東洋医道を無料教授してくれた無為塾にお世話になったが、そこで迎えたある新年の朝、先生が塾生全員に好きな言葉を書き初めにせよ…と大紙、禅書道用の大きな筆を渡され、各自おもいおもいの言葉を書いた。

その時選んだ言葉が『覚悟』で、何故この言葉を選んだのか自分でも不明だが、この時の『覚悟』がその後の出発点であり、常に立ち還る原点のような気がする。

美しい日本の私

 

 上記のビデオが見られるようなので、目下再チェック中。

その中で、彼がオススメしているので読んだのが、川端康成がノーベル文学賞を受賞した際、講演で話した内容が本になった文章、『美しい日本の私』・・・

(なんか、どこかで聞いたような…と思ったら、安倍晋三の『美しい国』云々。あぁ、これはもしかしたら、川端康成のここからパクリしたものか〜ぁとは思った。)

 

確かに徹頭徹尾、道元・一休・良寛など禅僧による短歌を中心に日本人の美意識について切々と述べられていて、ボクは本当に驚いた。(詳しくはウィキペディアを)

伊豆の踊子は2バージョンを映画で見たような気がするが、正直、川端康成の本は一冊も読んでいないのでなんであるが、彼がこれほどまでに禅について肩入れ以上の気持ちを持っていたとは本当に驚いたのである。

このノーベル文学賞受賞が1968年、禅の大家鈴木大拙が死んだのが1966年、もし彼が生きていたら、どんなに川端康成のこの講演内容に喜んだであろうか…と思う。

大きな流れからゆうと、日本の禅の存在を世界に知らしめた鈴木大拙の働きが日本の作家、川端康成のノーベル文学賞授賞を促した…とも言えなくはない。

だから、これはボク一撮の独断でしかないが、

『禅の東洋文化は間違いなく、いつの日か世界文化に貢献する…』と絶えず唱えていた鈴木大拙が没した後すぐに、それを引き継ぐ形で川端康成が文学の面から獅子吼したように思う。

そのせいもあってか、1980年代には禅が(そして禅に関する本が)世界的隆盛をみせたが、2018年現在本屋にいっても禅に関する本はほんの数冊のみ…という現状になっている。

しかし、先日も書いたように、ネットワークのおかげもあってか世界中の人々が日本に興味を持ち、実際に足を運ぶ様には先人がばらまいた『禅の香り』に魅せられて集まって来ているのかもしれない…。

 

著書『美しい日本の私』中でも、ボクが最も気に入った短歌

 

 『 心とは いかなるものを 言うならん 墨絵に書きし 松風の音 』 一休

 

 

常不軽菩薩に思うこと

今日もカテゴリーとしては(東西異洋文化事情)。

最近、本屋をぶらりとしていたら、日本関係の棚に(Ryokan〜梅の花)と題した小冊本を見つけた。

良寛の短歌集で日本語〜ローマ字読み下し〜フランス語訳となっていた。

バラバラとめくって、眼に飛び込んできた短歌

 

『 僧はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける 』良寛

 

良寛の短歌やら漢詩やら俳句などがたくさんあることは知っていたが、この詩は初めてお目にかかって、ボクは(一丁前に)いっぺんに良寛を肯った。

あぁ、良寛は仏教をこんなふうに思っていたのか・・・と。

常不軽菩薩とは

『法華経』に登場する菩薩の名前。彼は人を見ると『われ常に 汝を軽んぜず 汝まさに昨仏すべし』(わたしはあなたを軽蔑しませんよ、あなたは仏さまになられるおかただ…)・・・と、一人ひとりに丁寧に礼拝されたという。すると拝まれた人が、気色悪がって『わしはお前さんに、そんな予言をしてもらう覚えはない、うるさい!』といって、罵っても、殴っても、石を投げつけても逃げながら、『われ常に汝を軽んぜず、汝まさに作仏すべし』と言って拝まれ、一生をこの礼拝で貫いた。この菩薩こそ、釈尊の前生のご修行であったという。

ボクは30年ぐらい前に誰の著書であったか失念したが、この常不軽菩薩の話に大変印象づけられ、(ノートに書き込んでいたのを、最近発見)その後もこの名前に出会うたびに仏教の最も深いところを表現しているように思って心の引き出しの一項目として大切にしていたものが、たまたま今回、良寛の詩でこの名を観て触発した。

釈迦は、悟りを開いた時 『草木国土悉皆成仏』と言ったそうだが…

まぁ、それは置いとくとして

日本へ旅行した外国人の多くが、日本の虜になってしまう現象をみるとき

ボクは、仏教のこうした常不軽菩薩の話が象徴するような『他者への尊厳』の思想…などという型苦しい在り方ではなくまさに自然にそういった風潮を醸し出す国が日本ナノではないか?…というようなことは、海外に長く生活しているとよくよく感じられることではある。

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スイス人の禅僧、道海さんの後ろ姿…彼こそは洋風『良寛』とボクは密かにおもっている。

 

木こりの国… か?

新しいカテゴリー『東西異洋文化事情』をこのほど立ち上げた。

1991年からヨーロッパはスイス・ローザンヌに定住してから、『なんじゃコリャ?』と思う違和感について、誰かに話そう話そうと思いながらも…そのチャンスも時間も意気地もないまま、いつの間にか27年というかもうすぐ28年になろうとしている。

( でも多分すぐネタ切れになるカテゴリーかもしれない… が  )

これは、スイスに来て最初に思った違和感というか、ボクにとってものすご〜く異様に思えたこと。

キッチンでパンをパン用ノコギリでギコギコとパンを切ったはいいが、テーブル回りがパンくずだらけになってしまう状態…のことであった。

キッチンはボクにとっては、清浄かつ神聖なる…的な観念をいつのまにか持っていたようで、きれいなテーブル回りが、丸太ん棒のようなパンの塊をノコギリで切ってその切り屑だらけになってしまうキッチンに我慢せざるをえないながらも、心の深いところではずーっと違和感を持っていたのだ。

ヨーロッパなのだから、人々はパンを食べると言うことは当然知っていたが、それはボクが日本で食べていた食パンではなくて表面が固いパン塊をいちいちノコギリで切り分けて食べるとは全く知らなかったのだ…。

西洋人は一見ボクよりも華奢な男であっても、二の腕は必ずゴツ太いが、それはこの果てしない森林を切り開き、岩を砕いた子孫から引き継がれたDNAだからなのだろうか?パン塊を切りながら、ボクは時どきそれを考えている。

 

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必撮無眼流 〜 究極のプリント

久々の必撮無眼流であるが、これを生み出した経緯やらを考察しつつ・・・。

およそ35歳(1987)〜48歳(2000)の13年間ほど、写真活動を完全に休止していた。

51歳(2003)の時、それまでの観光ガイドという不規則な仕事から引っ越し屋に正社員として勤務することになり、週末土日休暇や生まれて初めてのバカンスなど規則正しい勤務体制にも慣れ、時間的余裕も若干できたことで少しずつ写真活動を再開することになった。

ただ、その時期というのが奇しくも写真界における大激震的変化の真っ最中であった。

2000年頃、写真は銀塩カメラで撮って、暗室作業を経て完成させるスタイルから、デジタルカメラで撮ってコンピューターを経て写真専用プリンターで完成させるというスタイルへ大きく移行する真っ只中であった。

それでも、ボクは昔通りアパートの物置的一畳間のスペースを『ラボ』と名付け、電気も配置して暗室を作り、週末などに写真を現像していたが、印画紙をはじめ現像用品が目に見えて写真用品店から激減する状態に一抹の不安をいだきつつの再開であった。

このころ、あるモノクロ写真展にでかけた時、写真家と誰かが写真について話しているのをそばで聞いていて驚愕したのは、モノクロフイルムをスキャナーでデジタル化してフォトショップで作業して自分のプリンターでプリントしたモノを展示している…という話であった。いまでこそ、ボク自身もその工程を当たり前のようにやっているが、その頃は信じられないような話だった。

それからだっただろうか?インターネットで日本の写真家達のブログを通して、激変する写真界の変遷期に悪戦苦闘しながらも前進する彼等から様々なことを学び、ボク自身のおよそ15年間のブランクを少なからず埋めることができ、2006年になって最初の一眼デジカメを買ってボクの写真デジタル化が始まったのである。

写真仲間が一人もいない中、まさに唯我独尊自己流の『必撮無眼流』が生まれた…。

と、前置きがものすご〜く長くなったが、要するに、これまで写真に関して受信一方であったが、今日のトピックは或いは発信することになるのでは?と思ったわけだ。

というのは、いままで見たこともない(単にボクだけが、遅れていたからかもしれないが)透明感抜群の仕上がりを見せるプリント法『Subligraphie』とここスイス仏語圏では名称しているものの存在についてである。

ボクも今回、試しにA2サイズにアルミ板にプリントしてもらったが、文句なしの出来栄え!これまで、写真の展示方法についていろいろ僕自身追求してきたが、見栄え、強度、軽さの点で写真の最終形態では?!と目下のところボクは思っている。

ただ、問題は料金なのだ。A2サイズで125フラン(12500円)と高いということ。

販売を目的に写真展を行うのであれば、仕上がりの点で素晴らしいのは間違いない。

店の主人の話ではこの手法はスイス国内でも彼のジュネーブ店だけ…だそうだ。

これから、写真の展示法もどんどん進展しそうだ。

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『キン○マ』?!

ヨーロッパで生きていくには、一日にジョークの一つや二つは言えないと…

三十数年前に初めてローザンヌに来た時に、強烈に思い知らされながらも…27年間、一度もジョークを自分から発した事はなかった。というか、様々な理由でジョークが言えなかったのだ。

だからといって、ユーモアを解さないというわけではなく、むしろ過敏なほどの受信能力の持ち主のボクは、人に解されない場面でほくそ笑む為に…なんど誤解を生んだか?

それにしても、最近笑えることが多い気がする。

今、日本の寺で修行している我が友スイス人老僧のクロードは、彼自身の修行修了を証す大事な儀式の日に『しゃっくり』が止まらなくなり、一時間に200回のしゃッくりの内に式を終えたそうだ…笑えない、気の毒な事態が起こったとは思ったが、神妙な儀式でシャックリしっぱなしのクロードを思い浮かべると…そうでなくても、(ほのぼのとした)笑いを誘う男なのに・・・。

先日、バトミントン相棒のピーターが、怪我がほとんど治ったんで、『プレーしようや』というので、『じゃ、無理せんでゆっくりやろうや』とボクが言うと、『OK, but let me win…』 ムムム〜っ やっぱり奴は英国人だワッ!!

で、今日いつも毎水曜日顔を出す日本茶屋『丸茶』での話。

この店は日本語堪能なスイス人のご主人と日本人の奥さんでやっている茶屋で日本好きな人々が結構集まってくるが、今日で見かけるのが2回目の若い男がいたので、日本語を話したいのだろうなぁ、と思ったので声をかけた『あなたは、日本語できますか〜』ってな感じで。『少し〜』のあとで、すぐ言葉が出てこなかったので、ボクは彼の日本語会話レベルがどの程度なのかすぐ解ったのだが、その後に彼が発した単語『キン○マ』に度肝を抜かれてしまった。

『キン○マ』?とボクは彼の眼を見て聞き直したが、彼は悪びれる様子もなく『キン○マ』と繰りかえすので、ボクはすっかり面食らい、そばで友人と話をしていた日本人女性に聞こえていないかと肝を冷やしていると、僕等の会話を聞いていたマスターが『ああ、それはギンタマですよ、マンガ本の…』と説明してくれた。携帯で『銀魂』の絵を見せてくれた。『あああ〜ギンタマ・・・か〜』…それにしてもこれは、ちょっとやばいタイトルだよ〜と、二十歳前後の紅顔の美少年的、君の口から発すべき言葉ではないこと、『銀魂』ならば必ず明確に『ギン』と発音して『キン』と言わないように、特に日本人女性の前では絶対間違わないようにと、釘をさしたのだった…

 

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    美しい玉のような満月が ジュラ山脈に沈む朝の図(2018年の秋)